陳 恂浪/Chen Xunlang
2022年4月3日
筆者について
私は清華大学美術学院の陶芸デザイン専攻を卒業し、2017年から日本に留学して2021年に金沢美術工芸大学工芸科修士課程を修了した。来日後は、展覧会を見たり、産地を訪問したりすることを通して、日本の工芸、特に陶芸を観察した。歴史上、中国と日本は相互に文化交流があり、それぞれの民族文化が定着しているため、両国における工芸、陶芸の認識は似ているようで似てないように見える。私は中国人陶芸家として、日本の方に中国の陶芸に関する情報を紹介していき、皆さんに示唆を与えられたら幸いである。
中国における「工芸」の定義
「中国における工芸」を語る前に、中国語が表す「工芸」の定義を明らかにしなければならない。各文献によると、日本と中国の「工芸」という用語には、緊密な繋がりがある一方、微妙な違いもある。中国において「工芸」という言葉は唐代に由来する。当時、役人の封演(?)の著述『封氏聞見記・図画』に記された「凡此数公,皆负当时才名,而兼擅工艺」(訳:当時、このような人たちは「技能」が得意で、有名になった)という一節に、初めて「工芸」という言葉が用いられた。ここでは「工芸」は主に「工」の意味が強調され、「技能」のことを指している。(侯,2018)
一方日本では、明治初期の近代化の中で「美術」という概念が成立する過程で、中国系外来語の「工芸」という概念が登場した。これは主に「手仕事」全般を指していた。近代化が進むと、機械仕事の「工業」と絵画や彫刻の「美術」がますます明確に区別され、「工芸」は「美術」の格下に置かれた。(北澤,2000)さらに現代の日本において、伝統工芸、民藝、クラフト、現代工芸のように「工芸」の意味合いはさらに多様化している。
中国の『現代漢語辞典』(中国社会科学院語言研究所詞典編輯室,2016)によると、「工芸」とは「技術」と「手仕事」二つの意味がある。中国と日本における「工芸」という用語は、熟練した技術で素材を扱い、造形や器などを制作することを意味するものとして、部分的に重なっている。しかし中国の文脈では、「工芸」という言葉は「美術」に完全に傾向しているわけではない。原材料や半製品を製品に加工する技術を指すように、製品からコンピュータープログラムといった幅広い分野で使用されている。したがって中国語では、「工芸」に「美術」を付け加えた「工芸美術」という用語が、日本語における「工芸」の意味に近い。本文では、中国語で指す「工芸美術」を「工芸」で統一に略す。
中国における工芸の概要
中国は世界四大文明地の1つとして長い歴史を持ち、東アジア文明の発祥の地の1つである。他の文明と同様に、中国においても「工芸」は、時代の発展を反映させた文化の縮図になっている。中国工芸は、地域性のある手仕事の特徴を反映するだけでなく、多様な民族のそれぞれのイメージを象徴し、中国人の物事に対する価値観を示している。現在、中国工芸は活力を保っており、ますます大勢の人が工芸の仕事に専念しており、工芸は新たな形に発展し続けていく。
中国伝統陶芸史と日本との関連
中国語の「陶芸」は「陶磁芸術」の略語であり、陶芸は中国工芸史において重要なジャンルの1つである。中国伝統陶芸は、一般的に中国封建社会以前に存在していた陶磁器の範囲を指す。中国陶芸を総合的に理解したいのであれば、中国伝統陶芸に取りかかるべきだと思う。ここで中国伝統陶芸史について簡潔に述べ、そのプロセスにおける中国伝統陶芸と日本伝統陶芸の影響関係を記す。
中国伝統陶芸は、新石器時代の仰韶文化と龍山文化まで遡ることができる。それらの陶器の造形や装飾、例えば仰韶彩陶の規則的に配列された幾何学模様や、龍山黒陶の極めて薄い生地から見ると、新石器時代の陶工が見事な製陶技術を持っていたことや、当時の父権制の集団(仰韶文化は母権制から父権制に移り変わる)、発達した農牧業、自然崇拝の習俗などの社会的背景がわかる。(中国硅酸盐学会,1997)
そして、中国は奴隷制社会から徐々に封建社会に入る。殷と周の陶磁器はほとんど、同時代の盛んな青銅器を模倣して作り、主に祭祀用の器として使用された。秦が6つの王国を統一した後、兵馬俑が登場するまでの約500年間は分裂期で、春秋時代と戦国時代において陶磁器は大きな進歩がなかった。
中国伝統陶芸史において、漢時代は過渡期の役割を果たした。漢の陶磁器は秦の陶磁器のスタイルを継承し、また釉薬と焼成も革新した。特に、殷の時代以降の「原始青磁」(「初期青磁」)から、後漢には本格的な青磁が登場し、その後の中国陶磁器は磁器をメインとして発展していく。
唐時代は中国歴史の中で繁栄した時代であり、世界の文化を吸収すると同時に、近隣諸国へ自国文化を輸出していた。唐の陶磁器は2つの主要な産地が分立された。南の地域では浙江越窯を中心に青磁が焼成され、北の地域では河北邢窯を中心に白磁が焼成された。どちらも日常に使う器に関わる焼き物が多かった。また「唐三彩」と呼ばれる陶俑をメインとした三彩陶器は、唐代の重要な陶磁器の一つである。当時の遣唐使がこれを持ち帰り、日本の陶工に推賞・模索され、独特の「奈良三彩」が生まれた。(郑,2001)
宋時代は中国陶磁器工芸の発展にとって重要な時期であったと言える。宋の製磁ブームは空前で、現在中国で発見された窯跡のうちに、約75%が宋から残った窯跡である。 「官、哥、鈞、定、汝」は、宋時代の代表的な磁器産地を含み、宋の5つの最も有名な窯の略語であり、陶磁研究者はその言い回しに基づき、宋の磁器を「青磁、白磁、黒磁」の三種類に分類した。各種類の磁器は、地域に応じた素材の特性を持っている一方、政治、文化、工芸に影響されて類似点が生まれ、これらの現象は後世に広く影響を及ぼした。こうした時代の中で、政府が直轄する窯と、地方の民営窯が現れ、宋以降の中国陶磁器産業はこのような中央と民間が共存するパターンで踏襲されてきた。南宋嘉定16年(1223年)、加藤景正(1168~1249年)は中国福建省建窑で約5年間、焼き物作りを習得し、その後日本の尾張瀬戸に窯を建って黒釉陶器(瀬戸物)を作りはじめた。 16世紀以降、瀬戸物をモチーフにした「禅」思想を持つ茶道具が流行し、楽焼、志野焼、信楽焼などの陶磁器が次々と登場した。(周,2010.10)
元時代では、北の遊牧民族と長期的に戦争するため、中国北部の主要な陶磁器産地での生産が中止され、景徳鎮をはじめとする南部の産地が興隆した。元時代に流行した染付から、明清時代の代表的な焼き物上絵付けと琺瑯にかけて、中国陶磁器の表現技法は圧倒的に絵付装飾に偏り、スタイルはますます複雑でゴージャスになっていた。海上貿易が発達し、明の中期から清の初期にかけて中国磁器の販売は、ヨーロッパに人気になった。 1511~1513年(1515年の説もある)の間に、五良太甫(?)は景徳鎮で磁器作りを学び、肥前の有田に戻って磁器を作りはじめた。 16世紀末、豊臣秀吉(1537~1598年)が朝鮮に出兵し、李参平(?~1655年)をはじめに朝鮮陶工が磁器作りの技術を有田に持ってきた。その後、有田焼は伊万里港を経てヨーロッパに輸出されていたため、伊万里焼と呼ばれた。しかし17世紀半、中国の政権更迭と頻繁な戦争により、景徳鎮磁器の生産は落ち込んだ。オランダ東インド会社は磁器の輸入を日本に依頼し、伊万里焼が景徳鎮磁器の代わりにヨーロッパ市場のギャップを埋め、ゆえに中国陶磁器の対外貿易が衰えた。海外では西洋の産業革命でもたらした技術的革新に遅れを取り、国内では清政府の腐敗と無能によって引き起こされた一連の社会的混乱で、中国の伝統陶芸史はすでに19世紀初に終止符を打った。
中国陶芸の現状とそれに対する考え
中国陶芸の歴史は長いが、その中に伝統陶芸が大きな割合を占め、近現代陶芸は過去30年から40年の間に押し広めたばかりである。当時多くの人々は、現代陶芸は西洋からの舶来品だと疑問を抱き、特に陶磁器産地の人々は陶芸の現代化に抵抗し、伝統陶芸と現代陶芸が一時的に相容れない関係になった。しかし、現代では中国陶芸は多様な形で発展しており、それは国内の美術大学が先導に立ち、その成長を促したからだ。
改革開放以来の急速な経済成長と西洋文化の影響により、中国には美術教育の発展が大きく進歩し、陶芸教育は徐々に国民の視野に入ってきた。 1980年代初め、中国の陶芸教育、特に近現代陶芸は、中央工芸美術学院(現在は清華大学美術学院)、中国美術学院、景徳鎮陶磁大学、広州美術学院、南京芸術学院などの大学から始まり、産地の陶芸家も様々な試みを行っていた。大学教員の定員数が拡大され、国内の陶芸教育に活力をもたらした。さらに、産地で仕事するだけでなく、多くの陶芸専攻の卒業生は、小中学校で教員として教えることを選択した。中国の陶芸教育は、前例のない積極的な方向へ進んでいる。
大学は陶芸の発展を強く促しており、地方の陶磁器産業も陶芸市場に貢献している。景徳鎮、宜興、徳化、龍泉、唐山、潮州、醴陵などの中国伝統的な陶磁器産地でも、従業員が大幅に増え、業界の競争はますます激しくなっている。同時に、大勢の人が陶芸に注目するようになり、陶芸は大衆の日常生活に接近し始めた。その中で、特に景徳鎮は、近年たくさんの海外アーティストが滞在制作に訪れている。景徳鎮の成熟した分業システムがより良い制作条件を提供することで、アイデアだけがあればそれでも簡単に実現できる。景徳鎮が世の中の人々を惹きつけ、グローバルな陶芸団地になっている。
陶芸が中国文化の一つとして重要視されているにも関わらず、国内では整備された陶芸の教育システムがなく、理論の欠如のため、作品の品質は上等なものから下等なものまで存在している。多くの作品が模倣段階に留まっているため、作家のコンセプトは明確に求められない。また、学術的方向性と市場の流行は一致してなく、陶芸コレクションが常に混乱しているのが現状である。
それでも私は中国陶芸の将来に可能性を見据えている。なぜなら中国の陶芸教育は国内の美術教育においてまだ発展途中の分野であり、その先行きに期待ができる。西洋の陶芸教育は巨大な理論に支えられ、近現代の美学を統合し、さまざまな主義の要素を吸収し、材料科学から工学までいろんな分野の知識をベースにしている。現代の中国の陶芸教育は、西洋と日本の陶芸理論を参考しつつ、中国陶芸の伝統的な思想を維持し、独自のスタイルを生み出そうとする動向がある。近年では大学と産地が交流し始め、大学側が学術的指導を行い、産地側が最新の技術を提供している。このように相互支援のスタイルは、中国陶芸において複合的な才能を持つ人材を育て、陶芸業界の良循環を促進している。さらに、中国人陶芸家は1990年代以降、世界中の展示会に頻繁に登場し、独自の方法で世界に中国の声を聞かせている。中国陶芸は、多様な学術交流や国際展示を通じて、民族の信念を超え、世界中の人々をつなげている。
【引用・参考文献】
侯样祥「『为“工艺美术”正名』经济日报-中国经济网(2018.9)
http://www.ce.cn/culture/gd/201809/07/t20180907_30241010.shtml(2022年3月24日 閲覧)
北澤憲昭 (2000)『境界の美術史─「美術」形成史ノート』ブリュッケ
中国社会科学院语言研究所词典编辑室(2016)『现代汉语词典』商务印书馆
中国硅酸盐学会 (1997)『中国陶瓷史』文物出版社
郑宁 (2001)『日本陶艺』黑龙江美术出版社
周光真 (2010.10)『现当代陶艺鉴赏与收藏』江苏美术出版社
【画像の出典元】
[1]张建功 彩陶纹样对后式绘画创作的影响http://www.chinashj.com/plus/view.php?aid=11019(2022年4月3日 閲覧)
[2]赏析――敦厚细致的中国古代陶器https://www.163.com/dy/article/F9MVF1JK05339P7A.html(2022年4月3日 閲覧)
[3]刘伟 故宫博物院 巩义窑三彩双系罐https://www.dpm.org.cn/collection/ceramic/226897.html(2022年4月3日 閲覧)
[4]文化遺産オンライン 奈良三彩壺https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/547965/1(2022年4月3日 閲覧)
[5]蔡毅「故宫旧藏看汝窑」『紫禁城』(2015.11)p 78
[6]文化遺産オンライン 五彩蝠雲文壺https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/516236(2022年4月3日 閲覧)
[7]文化遺産オンライン 色絵桜川文徳利https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/569209(2022年4月3日 閲覧)
[8]最陶瓷 乐天市集――周末陶瓷乐园(现场)https://mp.weixin.qq.com/s/4pD0-9zFZr0zW5Nixgsc-A(2022年4月3日 閲覧)
[9]白明 白明艺术(2017.8)
https://mp.weixin.qq.com/s/AWO64OXRF8cx1viUPpeuVA(2022年4月3日 閲覧)